先日のMAYU先輩のブログ「足るを知る」という生き方 を読ませて頂き、自分が無意識の間にしてきたことが、いかに人を傷つけてしまったり、「節度」のない行動だったかを考えさせられました。
また、私も前に稲盛和夫さんの本を読ませて頂いて「足るを知る」ということを知っているつもりになっていたことや、解釈の深さや感じ方で、自分が捉え切れていない、もっともっと深いものがあるという事を感じることが出来ました。そして、人生の中で常に心に留めて体得していかねばならないことが大事なのだと思いました。
そして以前から読ませて頂いている、森信三先生の『修身教授録』の中に、人間として生かされ、与えられたこの自分、この心をどう生かしていかなければいけないか、というお話があり、『足るを知る』ということに繋がってゆくのだと思いました。
大自然の営み
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最近急に寒くなりまして、この教室でも窓の硝子戸がほとんど閉め通しになっていますから、つい気付かずにいましたが、先ほどもここからちょっと外をのぞいてみますと、いつの間にやらもう窓の外には早咲きの山茶花(さざんか)が咲き盛っていますし、またその側には遅咲きの白山茶花の蕾も、もうすっかりふくらんで、今にも開こうとしています。わたくしはこの様子を見ると同時に、一種言い知れぬ深い感慨に打たれたのであります。と申しますのも、わたくしたち人間の間には“怠ける”ということがありますが、天地自然としての天然の営みには、いささかの怠りもないということであります。すなわちわれわれ人間の眼には、あるいは映らない時があるとしても、天然の営みは、こうしてわたくしたちがお話をしている間にも、黙々として行われているのであります。
(中略)
実際ただ今の山茶花にしろ菊にしろ、否かくいうわたくしたち人間自身でさえ、そのいずれもが大自然の所産であり、天然の営みの現れでないものはないはずです。
それゆえわたくしどもは、ただ山茶花や菊における天然の営みにだけに心を向けていないで、かくいうわたくしたち自身が、それらにも勝って大いなる生命を享けて生まれていることを、改めて反省しなくてはならぬと思うのであります。
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そして森先生は、そのような植物と私たち人間との相違は、(哲学的には動植物もそれぞれにあるとしても)結局心の有無、さらには精神の有無ではないかとおっしゃられています。
続きに、こうありました。
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植物はわれわれ人間のように心がないにもかかわらず、年中天然の営みを中絶するときはないのに、心を持っているわれわれ人間のほうが、かえって努める時と怠る時、張る時と弛む時とがあるのは、
そもそもいかなるわけでしょうか。これをお互いに深く考えてみなければならぬことではないでしょうか。
心を持ったわれわれ人間に、かえって弛み怠る時があるということは、ちょっと考えますと、いかにも不合理なことのようですが、事実は必ずしもそうとは言えないともいえましょう。
それというのも、そもそも人間の心というものは、一方からは一心よく天地の心にも通じ、さらには神仏の心にすら通うとも言えるとも申しますが、同時に一歩を誤れば、心は実に曲者であり魔物であって、常にあらぬほうへとさ迷いやすいのであります。
これに反して山茶花や菊などというものは、自己に与えられたもの以外の欲を持たないのであります。
例えば山茶花は、その植えられた場所が気に入らないからといって、あちこちと新たな場所を求めて
動き回るということはありません。また菊は、自分に与えられた肥料が不十分だといって、決して自ら養分を探し求めて、その辺をほっつき回るということはないでしょう。
これ植物が時来たれば必ず花を開き、時来たれば実を結ぶゆえんであります。
(中略)
わたくしども人間の心の真のあるべき相は、一体いかなるものというべきでしょうか。
それはただ自己のなすべき営みを、かの植物におけるように、ただ無意識に、いわば機械的に営むばかりでなく、自己のなすべきことを意識的に自覚して、その深い意味を知りつつ履み行わんがためでありましょう。
(中略)
ここに人間としての生を享け、心を与えられたことに対しては、何事にもまして深く感謝しなければ
ならぬと思うのであります。同時にまたそのことの意味をよく考えて、心をその正しさにおいて生かさなければならないでしょう。
神はわれわれ人間を、迷わせんがために心を授け給うたのではなく、動植物には見られない自覚の光に照らして自らの道を知り、日々の務めを営ましめんがためでありましょう。
心の働きを与えられたということは、すなわちまた自由を与えられたということでもあり、自由を与えられたということは、またそれに対する責任を負わされたものといわねばならぬでしょう。
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このお話を読ませていただき、自分が普段、目にする動植物などを思い浮かべてみると、狂いなくその営みが繰り返されて、季節毎に花は咲き、木の葉は色づき、四季はめぐっています。
また、私達人間も“天然の営みの現れ”なのだと改めて意識することができました。
どこかに、そういった大きなものに生かされているという感謝を忘れ、自分の傲慢さが出てしまっていたのではないかと思いました。
今こうして言葉や理性、心など、“大いなる生命を享けて生まれている”ことへの意味を考え、何不自由ない生活ができることに本当に感謝の気持ちを持って生きていかなければと思いました。
そして、森先生の言葉の中に、人間の心が 「一方からは一心よく天地の心にも通じ、さらには神仏の心にすら通うとも言えるとも申しますが、同時に一歩を誤れば、心は実に曲者であり魔物であって、常にあらぬほうへとさ迷いやすい」 とあったように、こうして考え、感じることができるこの心を、一生の間でどのようにして生かすのかが、人間として生まれ、いろんなものを与えていただいたことへの責任でもあり、また自分がどのような心で生きたか、それが周りの方にどんな影響を与えたのか、というような生きた証になっていくのだと、もっと自覚して生きなければと思いました。
以前ENKO先輩のブログで、自分の心を自分で操り、自分で機嫌をとり、コントロールするというお話があったとき、私は 自分の心は傾きやすく、反れてしまいやすいので、自分で自分を管理し、律していかなければと思ったのですが、まだまだできていないことの方が多いと思います。
まずは、“天地自然としての天然の営みには、いささかの怠りもないということであります”とあったように、今の環境や今与えていただいているものに対して心から感謝し、その中で自分にできる精一杯の努力をすることで、自分らしい花や実をつけられるように、自分のすべきことと、その意味を考えての行動をしていきたいと思います。それも「足るを知る」という自分自身の自覚をもつことだと思いました。
そして、与えていただいたこの心を、卑しい心、醜い心で無駄にしないよう、もっと周りや世の中の役に立てるような働きができるように育てていきたいです。










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