by/N.E
ある儒者は、『水の流れが激しくとも、流れに身を任せていれば、
落ち着いていられる。花がしきりに落ちていくのも、自然なことだと
思えば心も乱れない。』
このような心構えで人に接していれば、心身とも自由でいられよう。
“菜根譚(さいこんたん)”の一説です。
心が落ち着いているならば、さまざまな疑問や判断のつかない問題を
じっくり検討することが出来るし、諸々の雑務にも余裕をもって対処
できる。
扱いにくい厄介な問題に直面し、これを解決することに着手する場合、
頭の中に余計な雑念を入れておいてはならず、あらゆる誘惑、干渉、
浮ついた考えを意識的に排除し、極力集中することに努め、静かなる事
水の如き精神を保たなければならない。
現実の生活においては、多くの雑事の為に心がかき乱されている。
金銭や地位を追い求めてみたり、仕事がうまくいかなかったり、
心理的に不安定な状態になったり、他人の噂話や悪口に悩んだり・・・
哲学者の西田幾多郎は
「人は人 吾はわれ也 とにかくに 吾行く道を 吾は行なり」
という言葉を遺している。
そのとおりである。
自分には自分の人生や目標、生き方がある。
自分の思う通りの人生を生きる事が出来ず、常に他人の顔色を窺いながら
暮らさなければならないとしたら、それは明らかに他人の為に生きている
ようなものだ。
そのような人生に何の意味があるのだろう。
世渡りの為だとしても、いつも他人の歓心を得る事に汲々としているのは、
心理的物乞いと同じである。
この様な状況を打破するには、頭を働かせるだけではなく
「他人の事を気にしない」
度胸が必要だが、これは必ずしも誰もがもてるものではない。
ここで逸話をひとつ紹介したい。
ある禅師が、その師匠である高僧と対座していた。
高僧は、禅師に「私の前の師匠の教えを覚えているか?」と訊いた。
禅師は、少々得意げに答えた。
「はい。自分の素晴らしさは普段気づきにくいものですが、
無欲になればそれが見えてくる。それが悟りである。
という事でした。」
高僧は、これを聞くと大笑いし、その場から去った。
一晩中、高僧の大笑いの意味を考えた。
翌朝、禅師は、高僧に訳を尋ねた。
高僧は笑うだけだったが、突然「道化師は、人に笑われようが
気にしないが、お前は笑われることが気になって仕方ない。」
禅師はこれを聞いて、たちまち疑問が氷解した。
自分が何も間違った事をしてないのであれば、他人から笑われようと
気にする事はない。と。
実際周囲の思惑、顔色、好悪の感情を考えすぎ、他人の目の色を
気にして生きていくのは愚かなことこのうえない。
人には、それぞれ個性があるものであり、いちいちその事に
自意識過剰になっても意味が無い。それに、自分が考えるほどに、
他人は自分に関心など寄せてないものである。
したがって、最も大切なことは他人の見方ではなく、自分がどのように
考え、どのように行動していくのが良いのかを心に問いかけ続けること
である。
とありました。
これを読んで、きっとその時の心情や、生き方でとらえ方が様々だろうな
と感じました。ただ、この教えを間違ってとらえては決していけない。
さもすれば、自分は自分でいいんだ。人の事なんて気にしなくていいんだ。
を間違った方向でとらえてしまう人がいるかもしれない。
我(が)を通すのではなく、ここ数日の朝礼、ブログのコメントでも
あったように、真直ぐな正しい信念を持ち、素直な心で自分の価値を
見出し、人の教えは素直に聞き、人と共存し、共に生きていく。
それには、芯にブレのない自分であることだと思います。
大人になると、変なプライドや羞恥心で、心が真直ぐに向かない事が
多々あります。
そこには甘んじるのではなく、間違っていると感じたら、すぐ修正する。
上司に教えて頂きました。変わろうとするには忍耐が必要と。
良い意味の忍耐です。辛さに、耐え忍ぶというより、今までの自分の
マイナス部分に気づき、長年連れ添ったマイナス部分を切り離す作業に
対して、忍耐強く根気よく切り離し、改善していく。
心静かに落ち着かせ『自分の心に問いかけ続ける』作業を続ければ、
どんな壁にあたろうとも、きっと越えられる。
そうやって、自分で自分に価値をつけていく。
我道をいく・・・わがままな道を行くのではなく、先達の教えを
素直に乞い、正しき道を行くことで、はじめて我道を歩めるのだと
思います。