25日の日めくりカレンダー
やがて死ぬ けしきは見えず 蝉の声
という芭蕉の句がある。
蝉の寿命は一週間といわれる。しかし、そんなそぶりも見せず、
蝉は与えられた夏の一瞬の生を天地いっぱいに、鳴いている。
「いま」「ここ」に完全燃焼している姿を芭蕉は感動をもって、
とらえている。
人生には「いま」という時間と、
「ここ」という空間以外には存在しない。
生きるということは、「いま」「ここ」を間断なく生きる、
ということである。
禅者のいう「生也全機現」とは、いまここを最高に生ききれ、
ということである。その時に命は全機(すべての働き)を現出させ
「いま」「ここ」に全力を尽くす。------
そういう生を生きたいものである。
この世に存在するもので、どうでもよいものなど、一つもない。
夏の炎天下、焼けつくようなコンクリートのうえを、小粒の蟻が、
ひからびたみみずを、必死に引っ張っていくではないか。
蟻にひきくらべて、自己の心は、何とたるんでいることか、
深く自戒させられた。
「生は来にあらず、生は去にあらず、生は現にあらず、
生は成にあらざるなり。しかあれども生は全機現なり、
死は全機現なり。」 『正法眼蔵』
道元禅師の教えを、蟻が実行しているのに、人間のお前は何をしている
のかと自分を叱る。生きる一瞬に、すべての働きを、あますことなく
現す。死ぬ一瞬に、自分の持っているすべての働きを、これ以上ないと
いうところまでもっていく。人生はこれで決まる。
昨日できなかった仕事は、今日やればよいし、今日、間に合わなかった
仕事は明日へ延ばせばよいと、誰しも思って生きている。
道元禅師は、この考え方は、根本から誤っていると烈しく(はげしく)
説く。
昨日は、昨日で絶対であり、今日は今日で絶対、明日は明日で絶対
なのだ。
「しるべし、薪は薪の法位に住して、さきありのちあり、前後ありと
いえども、前後裁斷せり」
薪が燃えて灰となる、灰が元の薪に戻ることはない。
人が死んでふたたび生き返ることはない。死は生にならない。
薪が先、灰が後と見てはいけない。
薪の人生にも、先があり後があり、前があり後ろがある。
その前後は際断されている。
すなわち過去・現在・未来はあるとしても、
その前も後ろも際断されていて存在しない。
薪にあるのは「今ココニ」という絶対的な時間だけしかない。
過去はなく未来はなく、生きてある「今ココニ」。
生は生の法位にあって完結し、死は死の法位にあって完結している。
そこに因果・前後関係はない以上、「不生」といい「不滅」という。
一瞬一瞬が絶対なのだととらえて、一瞬の自己を現前していく。
そのすばらしい一瞬の自己がつみかさなって、人生ができあがって
いくのである。
いま、いる。この一瞬こそが、人生そのものであり、前後裁斷
(前もない後もない。いまこそが人生。)の 尊い生命なのである。
生きる=仕事 無心に誠実に精一杯 いまを生きたいと思います。









