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野口英世博士の母

23日の朝礼は、「母の愛」がテーマです。

「母」に愛された記憶こそ、一人ひとりの

生きる力の根源である。

その母の力こそ、ひいては日本という国を支えた根本である。

 

 

 

 

1 野口英世博士の生涯

 野口清作(英世の幼名)は、1876年に福島県翁島村(現在の猪苗代町)で生まれ、1歳半の時、母親のシカの不注意で炉に転げ落ち、左手が焼け爛れてしまって、医者にも見てもらえないまま、鍬も持てない手になってしまいました。

 

 清作の父親は大酒飲みで家も貧乏でしたが、シカは百姓になれない清作を学問で身を立たせるために一生懸命働きました。

 

 この時、シカは近所の人々が収穫したものや工芸品など重い荷物を預かって背負い、会津若松市内まで届けると、その帰りには人々に頼まれた買い物をし、それをまた猪苗代町まで歩いて運んで来て収入を得ていました。

 

 その距離、片道30キロメートル! しかも重い荷を背負って・・・。

 

(←シカは、清作が成長して医学研究のために米国へ旅立ってからも、毎年一度は、息子の健康を気遣って、さらに遠い「中田観音様」まで夜籠りに行っていました。)

 こうした母シカの献身的な愛情と、猪苗代高等小学校の先生だった小林栄(さかえ)先生の私財を投げ打ってまでの援助を受けて、清作は何とか猪苗代高等小学校へ入学することができました。

 でも、清作は学校で、動かない左手を理由にイジメに遭います。

 
 

 やがて清作は、現在の会津若松市内にある会陽医院で左手の手術を受けることになりました。そこで彼は医学の素晴らしさを知り、高等小学校卒業後に、会陽医院の渡部先生に弟子入りするのです。

 清作は熱心に勉学に励み、「ナポレオンは1日に3時間しか眠らなかった」 という言葉を口ぐせとし、事実、その言葉通りに実行したそうです。

 19歳の時に医師免許を取得するために上京した時には、「志しを得ざれば、再び此地を踏まず」という有名な言葉を残しました。

 そして、東京に出た清作は、会津若松の会陽医院から紹介を受けた高山歯学医院の血脇守之助先生の元で医学を学び、わずか20歳の若さで医師免許を取得したのです。


 その後、清作は、当時医学会で世界的に有名であった北里柴三朗が所長を務める伝染病研究所の助手となり、そこに訪れたシモン・フレキスナー博士と知合ったり、横浜の海港検疫所に派遣中、ペスト菌を発見するなどの功績を上げます。

 そして1904年、フレキスナー博士がニューヨークのロックフェラー研究所長になると、野口英世と改名した清作は「一等助手」として迎えられました。

 この研究所で英世は、蛇毒や梅毒、黄熱病の研究に没頭しますが、その熱中ぶりは猛烈で、同僚から「日本人はいつ寝るのだろう?」と言われていたそうです。

 そうした努力が実り、梅毒のスピロヘータの研究で名を為して、ヨーロッパ各地から講演に招かれるようになります。また、この時期には、研究所で知り合ったメアリー夫人と結婚もしました。

 ちょうど、その頃でした。

 渡米後12年。世界の野口として認められ始めた息子に、会津の母シカから一通の手紙が届いたのです。

 

 
2 母(シカ)の手紙
 以下に、シカの手紙を掲げます。

(←シカは学問も無く、字が書けませんでした。しかし、息子に一目会いたさに、囲炉裏の灰に指で字を書く練習をしながら、この手紙が書かれたのです。「財団法人野口記念会」が付した最低限の注釈のみ付けます。)

 
 おまイの。しせ(出世)には。みなたまけ(驚き)ました。
 わたくしもよろこんでをりまする。
 
 なかた(中田)のかんのんさまに。さまにねん(毎年)。 
 よこもり(夜籠り)を。いたしました。

 べん京なぼでも(勉強いくらしても)。きりかない。
 いぼし(烏帽子:近所の地名)。ほわ(には)こまりをりますか。
 おまいか。きたならば。もしわけ(申し訳)かてきましよ。

 はるになるト。みなほかいド(北海道)に。いて(行って)しまいま  

 す。
 

 わたしも。こころぼそくありまする。
 ドカ(どうか)はやく。きてくだされ。

 かねを。もろた。こトたれにもきかせません。
 それをきかせるトみなのれて(飲まれて)。しまいます。

 はやくきてくたされ。

 はやくきてくたされ

 はやくきてくたされ。

 はやくきてくたされ。

 いしよの(一生の)たのみて。ありまする

 にし(西)さむいてわ。おかみ(拝み)。
 ひかし(東)さむいてわおかみ。しております。

 きた(北)さむいてわおかみおります。
 みなみ(南)たむいてわおかんておりまする。

 ついたち(一日)にわしをたち(塩絶ち)をしております。
 ゐ少さま(栄晶様:修験道の僧侶の名前)に。ついたちにわ
 おかんてもろておりまする。

 なにおわすれても。これわすれません。

 さしん(写真)おみるト。いただいておりまする。(神様に捧げるよ 

 うに頂く) 
 
 はやくきてくたされ。いつくるトおせて(教えて)くたされ。
 これのへんちち(返事を)まちてをりまする。
 
 ねてもねむられません
 

 宛名は博士が予め送っていた英文のゴム印が押されていましたが、今は消え失せて読むことはできません。

 幼い清作に一生消えないやけどを負わせたことで、生涯自分を責めながら息子の無事だけを思って生きた母シカ・・・。

 長年会えない息子に向けて書かれた、たどたどしいその文字から、息子の身を案じる気持ちが痛いほど伝わります。

 


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